2025年6月7日

『どうしてSNSでは人々はあれほど攻撃的な言葉づかいをするようになるのか?』について、フランス文学者で武道家、神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏の論考を紹介する投稿(~~部)をFacebookで見つけた。

出典はYahooニュースとあったので調べたところAERA2025年6月2日号の巻頭エッセイ「eyes」ようだ。出典になっている内田氏のAERAの論考(「SNSに飛び交う罵倒と呪詛『空虚な人』が拒絶したもの」)の全文を知りたい方は以下を参照ください。
https://news.yahoo.co.jp/articles/addab23bbefe5d3ec3d66259e7036b4d92091c51

最近はSNS上の攻撃的な言葉づかいを見聞きして耐え難いと思いつつ、そう思う理由を整理できず喉に刺さった魚の骨のように気になっていた。一時的にせよそれが取れたような気持ちにさせてもらえた。
投稿文を転記で紹介したい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      ネットで飛び交う言葉のほとんどは定型的な罵倒と呪詛の言葉である。でも、その発信者が匿名にとどまる限り、読む人の肺腑をえぐるような激烈な罵倒や呪詛を以てしても、心の奥底にわだかまる『本当に個人的なこと』を語ることはできない。
私たちは自分の中に誰もが『人に知られたくない邪悪な、非道な思い』を抱え込んでいる。これにはほぼ例外がないと思う。私たちは日々その自分の邪悪さや卑しさや弱さに向き合い、そういうものを抱えている自分を引き受けて生きている。そして、その内的葛藤が私たちを少しだけ複雑な人間に仕上げてくれる。
でも、SNSで『人に知られたくない内なる邪悪さ』を、できあいの定型句に載せて『汚物』のように気分よく排泄してしまうと、その人は『本当に個人的なもの』とたった一人で正面から向き合う機会を逸してしまう。おのれの邪悪さや卑しさや弱さをみつめ、それを引き受けることを拒んだ時、そこに『空洞』が穿たれる。
最近、『空虚な人』という以外に形容のしようのない人を見かけるようになった。目の奥に『何もない』のだ。彼らはたぶん人生のどこかで自分の邪悪さや愚かさや弱さと向き合い、それを引き受けることを拒絶したのだと思う。その内的な空虚が表情や発語にまで露呈しているように見える」
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