2020年5月12日

5月9日の地方紙の“新型コロナと文明”という掲載コーナーに思想家内田 樹氏の投稿「最悪の想定嫌う日本 いずれは国の命取りに」という見出しの投稿を読み、喉に魚の小骨が刺ささったように最近気になっていたことが消え「腑に落ちる」感覚を久しぶりに味わうことができたので紹介したい。

内田氏は思想家、文芸評論家で武道家でもある論客として知られ、以前「街場の教育論」という著書を読んだことがあり当時教育現場にいた短歌の先達(弊師匠の一人)に紹介がてら話したことがある。

今回の投稿は紙面の半分を占める内容でそのことから地方紙としても力を入れたことが窺える。

氏は「危機管理」という切り口に沿いながら日本人、日本社会の特性を分析しその克服の可能性について論じており下記する当方の懸案事項にも答えを見つけることができて得心するに十分な内容となっていた。

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「世界が成熟社会(または低成長、減少社会)に向かうという論調が増える中で保守、革新または与党、野党を問わず日本の為政者が何故経済成長という錦の御旗にここまで固執するのか不思議に思えてこれまでも当コラムでも何度か話題にしてきたが得心に至っていない」

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少し長くなるが記載内容のサブ見出しを紹介しながら氏の論点・論旨の一部を転記することお許し願いたい。

*序:

・危機管理というのは、「最も明るい見通し」から「最悪の事態」まで何種類かの未来について、それに対応するシナリオを用意しておくことである。どれかのシナリオが「当たる」とそれ以外のシナリオは「外れる」。そのための準備はすべて無駄になる。そういう「無駄」が嫌だという人は危機管理には向かない。

*生き延びるため:

・危機管理は「儲ける」ためにすることではない。生き延びるためにすることである。

・例えば感染症用の医療機器や病床は感染症が流行する時以外は使い道がない。・・・「病床の稼働率を上げろ。医療資源を無駄なく使え」とうるさく言い立てると(実際にそうしたわけだが)感染症用の資機材も病床も削減される。そして、いざパンデミックになると、ばたばたと人が死ぬ。

・そういう危機管理の基本がわかっていない人が日本では政策決定を行っている。

・先の戦争指導部がそうだった。・・・「希望的観測」だけで綴られた作戦を起案する参謀が重用され、「作戦が失敗した場合、被害を最小化するためにはどうしたらいいのか」というタイプの思考をする人間は嫌われた。

*「言霊」を信じる:

・「言霊の幸(さき)はふ国」においては、言葉には現実変成力が有るとみなされている。祝言を発すれば吉事が起こり、不吉な言葉を発すれば凶事が起こると信じられている。

・それゆえ、日本では「プランAがダメだったら」という仮定は「凶事を招く」不吉なふるまいとして排斥される。そんな国で危機管理が出来るはずが無い。

・そういう国民性なのである。経済が低迷してきたら、五輪だ、万博だ、カジノだ、リニアだ、クールジャパンだとものに憑かれたようにわめき散らしていたのは、主観的には「祝言」をなしていたのである。・・・あれは「祈り」なのである。「言霊の力」で現実を変成しようとしていたのである。

・「日本人は危機管理ができない」ということを与件として危機管理については考える必要がある。

・今回の新型コロナウイルスによるパンデミックでも、日本人は「感染は日本では広がらないだろう」という疫学的に無根拠なことを信じ、広言していたが、それを「嘘をついた」というべきでない。あれは「言霊」だったのである。「感染は広がらないだろう」と言えば、その通りことが起きると信じて、善意で言い続けていたのである。

*同一のパターン:

・「東京五輪は予定通り開催される」も同じである。・・・「予定通り開催される」という祈りを、「開催しない」という決定が下るまで唱え続けるのが「日本流」なのである。

・同じ様に、感染拡大に備えて人工呼吸器や検査セットや病床を確保しないできたのは・・・「何の備えもする必要がなかった未来を」「予祝」によって招来しようとしていたのである。

・そうやって見直すと、今回のパンデミックにおける日本の失敗が同一のパターンを飽きずに繰り返していることがわかる。そろそろそのことに気づいてもいいのではないか。気付かなければ、同じことがこれからも繰り返されるし、いずれはそれがわが国の命取りになる。