2022年9月20日

ゴダールがスイスの自宅で医師の手を借り死を選んだとの報に接した。
かつて(学生時代)に映画館で「勝手にしやがれ」を見た記憶がある。

報に接して次のように詠んだ。

・死を選びヌーベルバーグの旗手逝けり暗がりの記憶「勝手にしやがれ」

映画といえば同じく学生時代に見たフランスのヌーベルバーグに影響を受けたというアメリカン・ニューシネマの旗手の一人アーサー・ペン監督“俺たちに明日はない”に触れた学内の新聞に投稿し掲載された拙論考も思い出す。
テーマは学内のサークル活動に触れた「文化・スポーツ活動の発展のために」であったがこの中で映画などの脚本・批評の論客石堂淑郎の言葉の引用の中で次のように紹介している。

~~~ 拙HPのアーカイブスの「寄稿・投稿・著作から」転記 ~~~

石堂淑郎「映画における幻想と死」(デザイン批評・1968・2・NO・5)より
・ ・・・・中 略・・・・・
つまり、ボーニーとクライド(アーサー・ペン監督“俺たちに明日はない”の主人公達)は、絶望をその両肩におぶったまま譲らず遂に殺され、創価学会・民青はその絶望を宗教的・政治的幻想という偽りの希望に肩代わりさせるのだが、少なくとも前者は精神的な疎外を肉体によってうけとめることによってプロテストしているのに、後者は疎外からより大いなる疎外へと移行しているだけなのである。キェルケゴール風にいえば絶望を絶望としてうけとめて死ぬのと、絶望を希望という名の絶望に肩代わりさせてニコニコするのとどちらがより絶望的であるのか、勿論、後者である。これをいま別の面から考えてみれば、学会なり民青なりの核である宗教的、政治的幻想は敵対者に対する憎悪をその唯一の栄養としていることがあげられる。つまり彼らのニコニコ顔は非同調者に対する憎悪の顔と表裏で一体であることを忘れてはならない。それは幻想という見えざる呪縛の力にとらえられている人間のつねである。
・・・・・後 略・・・・・