2012年7月6日

「苦界浄土」の著者石牟礼道子は余りに有名だ。
石牟礼が取組んだ「水俣病」、さらには「イタイイタイ病」や「足尾銅山鉱毒事件」まで遡れる日本の公害事件は国が仕組み、企業が追従しその廃棄されたもので地方の共同体や家族が分断されるという関係性(構図)はそのまま原発の推進とその事故に当てはまるのではないだろうか?
石牟礼氏はこのこと(共同体や家族を分断すること)を【棄民(国が役に立たなくなった人々を棄てること)】と呼んでいる。

いま、フクシマとその住民がそのような状況下に無いと誰が言えるだろうか?
震災、原発事故の遅々として進まない救済や復興の施策は多くの棄民を生んでいるとは言えないだろうか?

過去の歴史にもこのような事例は数多い(満州開拓などの移民、中国残留孤児・・・)。
私たちは過去の例から何を学んだのだろうか?

さらに、【棄民】の意味を広げると現代版の棄民が巷に数多く顕在化していると言える。