新聞記事に小さく主題の掲載記事が有った。
その前に・・・、
24日のTBSの「おやじの背中」というTV番組は山田の脚本で「よろしくな。息子」であった。
何と1足100万円以上の靴しか作らない手作りの靴職人を渡辺謙が演じていた。
http://www.tbs.co.jp/oyajinosenaka/story/story07.html
やはり、山田太一は際立っているな~という印象を持ったばかり。
山田太一は「ふぞろいの林檎」あたりからずうっと気になって脚本、小説、TVドラマなどを見てきて直近ではエッセイ「月日の残像」を読み終えたばかりだったのでこの受賞の記事になるほど見てる人は見てるな~と思った。
さて、本題・・・「月日の残像」を読んで心に留まった内容から一つ紹介したい。
*「ひとりカラオケ」の章から:
以下に部分的に要約転記して私見を添える。
・知人で「ひとりカラオケ」に行く人がいる。
・・・沢山歌って、歌い疲れて、個室に一人でいる人の姿を思い浮かべてしまう。
一人だから助けはない。結局ドアをあけて外へ出て、町をあるいて、自分で現実を
生きるしかない。だけど、なにか摑まるものが欲しい。あと一曲。・・・歌えなくて
も、頭の中でその曲を轟かせて立ち上がりたい。ドアを開けたい。・・・
⇒この辺りがフジTVドラマスペシャル「よその歌 わたしの唄」に繋がったと
思われる。
・歌をなめてはいけない。歌詞を読んで判断してはいけない。歌詞のひどさに、
「なにこれ」などと呆れてもなんの批評にもならない。まるごとの音楽を聞かなくては
いけない。
それでも文字人間はつい歌詞に目が言ってしまう。そんな時に出会ったのが、サザン
オールスターズだった。・・・なにをいっているのか聞き取れない。他のその頃の人
の歌は分かりやすかった。桑田さんのだけ分からなかった。それがよかった。
そうなんだ。こうなんだ。こうして文字は後退して行くのだ。
やがてドラマに使わせてもらうようになり・・・ちょっと歌ってみようと思うと、
覚えていないのである。
メロディも歌いっぷりも再現できるのに、歌詞が消えている。最後の「エリー」だけ
しか残っていない。桑田さんも喜んでくれると思う。「非言語的な文化言語」の鈍化
である。文字の回路がほぼ消えたのだ。
⇒山田氏より一回り若い当方もやはり歌詞抜きの歌にはなかなかついていけない団塊
である。桑田の曲のメロディーは記憶の中に残っているが、歌詞の意味とメロディ
が一体化してこそなんぼのもんという立場ゆえ当方は阿久悠、井上陽水、浅川マ
キ、山崎ハコの世代なのかも知れない。
*2013.08.12の当コラム「TVドラマから見る脚本家二人の違いはどこにあるか」で
橋田寿賀子との比較で山田太一のフジTVドラマスペシャル「よその歌 わたしの唄
(2013.07.04放送)」に触れた。
この「ひとりカラオケ」の章(2013.03付けの記載あり)はこのTV番組と同じ時期
ということからの下地になっている思われる。