このところ掲題のニュースがメディアを賑わしているが、常々、核保有や核開発については次のような短歌に詠んだことがある。
やましん歌壇2019年年4月掲載(大瀧 保選)
♪核を持つ国が他国へ求めたる放棄の論理に不条理覚ゆ
核保有、核開発の問題と国の体制(資本主義、社会主義、イスラム教社会主義、その他)の差異は直接的な関係はないと思うが、複雑な関係であることは論を待たず、当方のようなノンポリには手に負えないテーマと思う。
それでも、上記拙詠草は素朴、かつ根幹的なことを詠んだつもりであり、明確な答えをいまだ見聞きしたことがない。
ふと、この詠草のもとになる考えを拙HPのコラム飛耳長目に記したはずと確認してみたら、9年前に次のように書いていた。
その3年後にこの短歌に詠んだということになる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・期日:2016年4月2日
・タイトル:地方紙に”くすぶる核武装の疑念 米で核安全サミット”
・内容:
3月31日の地方紙にも“15年の核軍縮進展見られず”とあったがサミットはやらないよりはましという個人的印象。
しかし、核保有国が自らの軍縮の具体的シナリオ、スケジュールを提示してその進捗を公開してこそ非保有国へ持たないようにと言える
のが筋というものではないだろうか?
それができない保有国が非保有国に対して「核を持つな!」というのは根本的な部分で無理があるように思えてならない。
メディアはそのような論点の記事掲載ができないものか、期待したい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~